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宮本憲一先生インタビュー②

2019.10.08

昨日アップしたインタビューの続きの動画を文字起こししました。前回住民投票の直前に宮本先生に伺ったものをテキストとしても残したいと作業しました。今回はインタビューと言いながら、先生のお話に口をはさむ余地もなく、一方的に聞かせて頂く形になってしまいました。今や、風前のともしびとなっている「大阪市」。宮本先生のお話を聞いて、大阪市民の皆さまに、今お住まいの「大阪市」がどんな町で、国の政策をも引っ張ってきた歴史をもっていることに「誇り」を感じて頂きたいという思いをさ更に強くしました。

動画はこちらです。

そして、宮本先生のお話の書き起こしテキストです。なお、文中のカッコや行変えなどは私の独断で構成しております。ご容赦くださいませ。

「大阪市民の誇りとは」

「大阪市は戦前の大正の終わりから昭和の初めにかけて日本の都市政策をリードしていたのですね。
都市計画を考えたければ大阪を見よというふうに言われていたわけですね。それは何故かっていいますと、関一(せきはじめ)という一橋の教授で政策論の大家だったんですが、池上さん(第6代大阪市長:池上四郎)という市長に呼ばれて、大阪市の助役になり、その後大阪市長になって、20年間、これは珍しい例だと思いますが、20年間市政を担当したわけですね。
関一という人が経済政策論、交通政策論、商業政策論、社会政策論など、一橋でそういう政策論を、すべてといってもいいほど担当していた人ですが、特に社会政策、彼は「都市社会政策」という言葉を使って、我々にも非常にその後の学会に影響を与えてるんです。
社会政策というと、国家が例えば生活保護をしたり、あるいは労働対策をするのだけれども、それだけでは、実は労働者の生活や市民が生活はよくならない。都市に「都市の社会政策」が必要なので、つまり労働者の住宅とか保健所とか保育所とかですね。あるいは商業的な施設だとか生活環境施設、公園、例えばスポーツ施設とかですね。そういうものを揃えなければ、賃金を上げる、労働条件を良くするだけではだめだと考えたんですね。
この非常に新しい、現在に通ずる、「都市政策」というのはそういうものじゃなきゃならないんですけれども、そういう都市社会政策というのを、彼の社会政策論の中で提起するんですね。

彼は市長になった時に、まず考えたことは、大阪は「近代的工業産業都市」にならなければないと考えたので、今皆さんが知っているような御堂筋をはじめとする道路のネットワークを作り、大阪港を作り、それから一時期は電灯会社を作り、市電を作り、地下鉄を作り、つまり今大阪が持っているインフラ、社会資本といわれているものを、ほとんど計画、あるいは整備した人なんですね。
ところが彼は、これは大阪のいわば「骨格」なんだ。本当に大阪というものを血の通った人々の住む街にするにはこれだけではダメだと自分の都市政策の目標は「住み心地良き都市」を作るという、スマートな言葉でアメニティのある街を作りたいと彼は語ったんですね。そこでそういう「住み心地良き都市」を作ろうとすれば、一番の土台は一番貧困な層、あるいは労働者階級のための住宅、生活環境から出発しなきゃならないと考えまして、道路だとか鉄道とかいう骨格が終わった後の第二都市計画で彼が一番力を入れたのは労働者住宅、それから環境ですね。
彼は飛行機にまで乗って煙の都といわれた大阪の煙をいかに少なくするか。これは大成功するんですけどね。そのために衛生試験所をつくって、これは日本で最初の大気汚染の経年計、毎日のデータをとってそれで煙を少なくする。そういう作業する。それから水都を再生しようということで、中之島のあたりの開発。市民のいろんな寄付がありました。中ノ島の公会堂を建てたり、あるいは大阪城を再建したり、そういう環境整備をする。そういうことをに力を尽くしたんですね。
ある新聞記者の著書に献辞してくれと、はじめの言葉を書いてくれって頼まれて、いい言葉を言ってんですが、「煙突の数を数えるだけではダメだ。下を向いて労働者の生活を見よ」っていうんですね。だから彼が初めて高野岩三郎という日本の統計学の先駆なんですけど、社会問題研究所の高野岩三郎と組んで、日本で最初の労働者家計調査や住宅調査をやった。
これは膨大なもので、今でも私たちにとっては歴史的に貴重な文献になってるんですね。彼は科学者ですからそれを元にして、それで都市政策を作ったんです。もちろんあの日本の都市計画を作る時の中心人物でもありました。私はそういう都市政策を日本で最初に実現をした、この伝統っていうのが、大阪の中にずっと生きていたわけで、市役所に対しても批判ありますけれども、やっぱりその都市政策という点といえば戦後のですね、大阪市は日本ををリードしてきたそういう都市だったと思いますから、これはやっぱり市民が「誇り」としてですね受け継がなきゃならないんじゃないかと思いますね。」

宮本先生はここまで一気に語ってくださいました。私の「普通に暮らせるという基盤が昔に出来上がっておりなおかつその社会政策に関しても国を引っ張るだけの街であったと。国の政策が後からついてくるぐらいの街であったというということは間違いでございませんですね」という質問に対して

「そうですね戦後も、大阪市は一人もその天下り、人物を受けてませんよね。むしろ逆で、大阪市の職員が総務省や自治省に行って、そして都市政策を指導していたわけですからね。その伝統っていうのはやっぱり誇りにしなきゃならないんじゃないでしょうかね。」と答えてくださいました。

 

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